戦前から戦中にかけて、日本の農業事情は、現在よりも一層深刻で、黄変米やまずい米の大量輸入に心を痛める人々がいた。
その中でも、宇宙の真理である東洋哲学を基本に、危機に陥った農業を高度化し、食料の自給自足のビジョンを打ち立てたのが、楢崎皐月である。
楢崎は、明治32年、山口県萩の母方の実家にて生まれた。
生まれ月が5月だったので、皐月(さつきという呼び名)という名が付けられた。
幼年時代を北海道で過ごし、仙台二高に進学しようとするが、
試験期間中に松島見物に行き、事故のため身体検査の時間に間に合わず不合格となる。その後、上京し、レントゲンの研究家である、河喜多某の知遇を得て、日本電子工業の電気学校に学ぶ。
やがて、フリーの技術者として日本石油と契約し、絶縁油の開発を手がけた後、
福島県相馬郡で、亜炭から人造石油を作るプラント工場を設立するが、
実用化直前の昭和18年、「ノモンハン事件」によって苦境に立った陸軍が、質の良い鋼鉄を作り出す技術を開発したいとの希求から、陸軍大臣東条英機らが依頼し、満州吉林省の陸軍製鉄技術試験場の所長として赴任する。
楢崎は、原子科学の研究でさえ、米国や旧ソ連の尻を追う必要はない、と言い放った。
戦後は、星一(ほしはじめ)氏の援助を受け、東京都五反田の星製薬内に、重畳波研究所を持ち、酒の味を電気的に改良する研究や、電気を農業に応用する研究を行った。
重畳波研究所の所長は八木アンテナの発明者として名高い八木秀次博士、顧問は和田工大総長という錚々たるメンバーによって構成され、楢崎を中心として、各県から二名ずつの知事推薦者を集めて発足したものだった。
星一氏は、日本の新しい農業技術開発の必要性を誰よりも強く感じていた。そこで、終戦によって離散し手いた農業技術者に働きかけ、開発や研究を要請している。
星氏の描いていたものは、敗戦直後の飢餓状態からの脱却と日本の将来の食糧危機に備えるという理念のもとに進められる農業技術推進のための学校の建設であった。
ところが、昭和25年、星製薬の経営悪化に伴い、星氏は会社内部での反対に遭遇し、氏はやむなく私有財産を処分して研究所の継続を図ろうとしたが、その後急死した。
その結果、重畳波研究所は閉鎖され、楢崎も退社を余儀なくされる。
その後、楢崎は自力で研究を続け、独自の理論である「植物波農法」を引っさげて、民間レベルにて農業指導に乗り出した。